太陽が消えた日
高天原の空は、常に朝焼けのようだった。赤でもなく、橙でもない、微細な光の粒子が空を満たし、時間の流れを忘れさせる。ここは天と地の狭間。神と人間の記憶が交差する場所。ノエインは、長い間訪れていなかったこの“記憶の世界”に、久しぶりに降り立った。
「……あのときの光は、どこへ行った?」
呟きながら、彼は足元に広がる大地を見渡した。
すべては、かつて自分が創ったはずのものだ。太陽神、嵐の神、踊りの神、知恵の神――それぞれが役割を持ち、この世界を彩った。だが今、その輝きが褪せている。
遠くに見える巨大な岩。
それが、アマテラスが身を隠している「天岩戸」だった。
神々の一部は岩戸の前に集まり、静かに、しかし焦りを滲ませて議論を交わしている。
光を取り戻す方法を模索しながら、誰もが「自分には何もできないのではないか」という不安を抱えていた。
ノエインは、その神々の様子を高台から見下ろしていた。彼の眼差しは冷静で、どこか懐かしげだった。
しかしその内面では、別の感情が渦を巻いていた。
「なぜ……神々は、ここまで脆くなった?」
この神話を創ったのは、自分だ。
アマテラスが光であり、スサノオが混沌であり、ウズメが希望を運ぶ存在であると、そう定めたのは他ならぬ自分だった。
それでも、神々は思いもよらぬ進化を遂げていた。
創造主の意図を超えて、「人々の祈り」が神々を育ててしまったのだ。
その祈りが、時には奇跡を生み、時には神々を傷つける。
それが「神話」というものなのか――?
ノエインの胸の奥に、かすかな痛みが走った。
その痛みは懐かしく、そして初めて感じるような切実さを帯びていた。
天岩戸の前では、神々の会議が続いていた。
「踊って、笑わせるって……それで太陽が戻ってくると思うのか?」
神のひとり、建御名方(たけみなかた)が苛立ちを隠さず言い放つ。神々の中でも武の力を司る彼は、無力感を嫌う。
「お主の力では、岩戸はこじ開けられぬだろう」
老神・オモイカネが静かに言い返す。彼の額には深い皺、瞳には万象を見抜く光。理を司る神だが、今は知恵が足りないとさえ感じていた。
「じゃあ、やるしかないわねぇ」
アメノウズメが腰に手を当て、天岩戸の前に立つ。
祭祀と踊りを司る神――彼女の目は笑っていたが、その背に背負った覚悟は、他の神々よりも重かった。
ノエインは高台の岩に腰を下ろし、静かに彼女の舞いを見つめていた。
扇を持ち、胸をはだけ、足を踏み鳴らす彼女の舞は、神の舞でありながら人の舞でもあった。何千年も後の祭りの原型となるその踊りは、滑稽さと荘厳さを同時に宿している。
笑い声が、徐々に高まっていく。
八百万の神々が、顔を見合わせ、笑い、拍手を送り始めた。
――その笑いは、誰のためのものか?
ノエインは目を閉じ、空間に揺らぐ“人の記憶”を拾い上げた。
記憶層が震え、人間たちの声が流れ込んでくる。
「……陽が出ぬのか、今日も……」
「田が枯れた……稲が、もう……」
「神よ、我らを……」
土に膝をつき、雲を見上げ、ある者は飢え、ある者は赤子を抱いて祈る。
彼らにはアマテラスの名さえ知らぬ者もいた。
それでも――祈っていた。光を、希望を、ただ求めて。
ノエインは息を吸った。空気が濃い。
彼は創造主でありながら、この祈りを知らなかった。いや、知ろうとしなかった。
「神々が祈りを生むのではない……祈りが神々を生んでいるのか?」
かつて創った神々が、いま“祈りによって鍛えられている”のを、ノエインは確かに感じていた。
創造主の意図など、もはや届かないほどに。
アメノウズメの舞いは最高潮に達していた。
その肉体は震え、汗は宝珠のように飛び散り、神々の笑いは空をも震わせる。
――そのとき、岩戸の奥から、かすかな光が漏れた。
ノエインは立ち上がる。
何かが“始まる”感覚。胸の奥がざわついた。
彼の記憶にない展開だった。
「この神話……私は“知らなかった”のかもしれないな」
光が差し込む先に、鏡があった。
天照大神は、その鏡に映る自らの姿を見ていた。
そして、少しだけ微笑んだように見えた。
この瞬間を、ノエインは永遠に記憶した。
かつての太陽神アマテラスは、今、静寂の岩戸の奥に光を閉ざしていた。
草木は眠り、海は凪ぎ、大地は声を失っている。ノエインはその地に降り立ち、静かに神々の営みを見守っていた。
天上界・高天原では、残された神々が光を取り戻す術を探っていた。
だが、かつて一枚岩だった彼らの心に、ほのかな亀裂が生まれていた。
⸻
「これも“創造主”の試練なのだろうか?」
そう呟いたのは、オモイカネ。知恵を司る神でありながら、その瞳は迷いを帯びていた。
「どうすればアマテラスの心をもう一度照らせるのか……」
一方で、スサノオは不満げに唸った。
「試練だと? 違うな。アマテラスが自ら閉じこもっただけだ。俺のせいにするな。」
場が凍りついた。
「スサノオ、お前は――」
「黙れ!俺の行動には意味があった!」
言葉の応酬は、まるでかつての戦(いくさ)を再演しているかのようだった。
神々の中に、かつての痛みが残っていた。
それを誰も癒しきれていない。
⸻
ノエインは遠くの岩陰から彼らを見ていた。
その眼差しは厳しくも温かい。
「これは、彼ら自身で超えねばならぬもの……」
彼はかつてこの神々を造った。
理(ことわり)と混沌、優しさと荒々しさ。全てを内包する存在として。
だが、今こうして見ると、それは調和ではなく、分裂の種だったのかもしれない。
⸻
その夜、神々は集い、「アメノウズメ」の提案で一つの策が練られる。
それは、陽気な舞と笑いによってアマテラスの好奇心をくすぐり、岩戸から出てきてもらう、というもの。
「こんな時こそ、笑いの力よ」
ウズメは自信に満ちた笑みを浮かべるが、他の神々の表情は複雑だった。
「今のアマテラスにそれが通じるのか……」
「笑いで心が動くなら、苦労はない……」
一同の不安をよそに、ノエインはふと、**ウズメの背後に微かな“変化”**を見た。
それはまるで、神々の中で何かが芽吹き始めた兆し――。
⸻
スサノオは、岩戸に背を向けたまま空を見上げていた。
彼は何も言わない。けれど、その拳は震えていた。
「俺は……本当に、壊すことしかできなかったのか?」
自問が、彼の内側で波紋のように広がっていく。
そしてノエインもまた、ひとり思う。
「彼らの中に答えはある。だが、それを見つけるにはもう一度……“衝突”が必要かもしれない。」
⸻
神々の心がすれ違いながらも、わずかに歩み寄る兆しが生まれたこの夜。
高天原には、久方ぶりの風が吹いた。
まだ光は戻っていない。
だが、夜明け前の、最も深い闇は越えつつある。
ノエインは静かに目を閉じた。
「この先に何が起きようとも――彼らが自分で掴むしかない。」
その時、岩戸の奥で、アマテラスのまぶたがわずかに動いた。
夜が明けきらぬ空の下、高天原の神々は最後の望みにすがるようにして、岩戸の前に集まっていた。
アメノウズメが舞う。
裸身にしめ縄をまとい、地を踏み、胸を打つ。
その姿は神々の眼を奪い、笑いを誘った。やがて、その笑いは岩戸の向こうにも届いた。
「……何をしておる?」
声がした。
岩戸の奥から、アマテラスの声が。
神々は目を見開いた。
ノエインもまた、静かに息を飲む。
これは、神話に記された通りの展開。しかし……彼の眼は別のものを見ていた。
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岩戸が少しだけ開く。
その隙間から、アマテラスが半身を覗かせる。
その時、タヂカラオが立ち上がり、アマテラスの手を取り、力強く岩戸を引き開けた。
光が――差し込んだ。
久方ぶりの太陽が、空と大地と人の心を照らし返す。
神々の歓声が天に届いた。
この瞬間、闇は祓われた。
太陽は再び、世界を巡りはじめた。
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だが、その裏側でノエインは静かに何かを見つめていた。
「予定通りの物語、予定通りの神話。だが――」
彼の視線の先にいたのは、スサノオだった。
喜ぶどころか、彼はただ黙って立ち尽くしていた。
彼の心には、和解も達成もなかった。
むしろ、彼だけが“物語の外”に取り残されたような顔をしていた。
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ノエインはゆっくりと歩み寄る。
「光が戻った。だが、それでお前の心は晴れたか?」
スサノオは答えなかった。
「お前は破壊と混沌を担う神として作られた。だが、それは滅びのためではない。進化のためだ。
ならば、自分自身を否定することはない。」
「……そんな言葉、何度も聞いた。」
「ならば、聞くべきは言葉ではなく、自分の声だ。
この世界の光と闇、どちらも必要だと――お前が気づくことが、この章の本当の終わりだ。」
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スサノオの目に、わずかに火が灯る。
彼は空を見上げた。
その空には、再び太陽が輝いていた。
アマテラスの笑顔が雲間から覗いていた。
その光の中、スサノオはほんの一瞬、微笑んだ。
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ノエインは最後に、空を背にしながら静かに呟いた。
「神話とは、記録ではない。祈りと赦しと気づきの連なり――
私がこの世界に刻んだもの、それを彼らが超えていく時が来た。」
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太陽は天を巡り、大地に影を落とす。
影があるからこそ、光は尊い。
こうして、日本神話の世界に光が戻り、ノエインの旅は次の神話へと続いていく。
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次は、「嵐と砂漠の神々が織りなす、運命の試練」。
エジプトの大地にて、ノエインは再び“神”たちと向き合う。
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